人は誰しも“幸せ”になりたいと願い、“幸せ”になるために努力もしているだろう。しかしなかなか思うようにはならず、さらに理想を求めて勉強をし、努力を重ねる。ここに一人の女声の体験を紹介する。彼女が追い求めたものは何だったのか?そしてそれは手にできたのだろうか?
柳沢 かおりさん 50代 女性【東京都】
病弱だった私を守ってくれる母…
私は父母と3歳上の兄と私の4人家族でした。生後間もなく肺炎で入院し、喘息持ちで何かと虚弱だったため、母は兄よりも私に手を掛けてくれました。食が細く病弱な私のために、母は工夫をこらした手作りご飯を何時間もかけて食べさせてくれたり、熱を出せば付きっ切りで看病してくれたり、私はとにかく母の手のかかる子供でしたし、母も手作りの服を私のために縫ってくれたり、一緒に絵本を読んでくれたり、庭で草花を愛でたりと、私との母娘の時間をとても大切にしてくれていたように感じています。
幼い頃の母と2人きりの心穏やかで優しい時間は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いていて、私は母に完全に守られることで安心し、純粋に母を心から愛していました。
ところが、そんな心温まる母娘の時間は、サラリーマンの父が不在の日中のみのことだったのです。
厳格な父が夕方帰宅すると家の中は極端に一変し、ピーンと張り詰めた空気が立ち込め、気に入らないことがあれば一触即発!
家族団欒は、卓袱台返しの戦場に変わりました。父が在宅の時は、父を怒らせないように怒らせないようにと、母と兄と3人で縮こまった時間を過ごしていました。
何か気に入らないことがあると、父の怒りの矛先はいつも母に向けられ、昼間の明るく無邪気で太陽のような生き生きした母は消え、弱く怯えた惨めな姿に、酷く心を傷め続けてきたことを覚えています。
理想の家庭を夢みて…
「母を父から守りたい!」
幼い私は本気でそう思いましたが、あまりにも幼すぎて力不足で弱くて、それが叶わない不甲斐ない自分をとことん憎んできたとは思ってもみませんでした。
私が幼稚園、小学校と進むうちに、周りの家庭を見る機会が増え、
「よそのお父さんはとても穏やかで優しい人なのに、我が家の父は鬼のようだ!」と、他者と比較することで、父をどんどん最悪な人へと創り上げ、我が家は異常な家庭である!と、その異常さに怯えて成長してきました。
追い討ちをかけるかのように、私が小学生のころ、敷地内の別棟に同居していた父の姉と一番下の妹が、次々と精神を病んで行き、奇抜な行動をするようになり、近所から憐れみと特異な目で見られることに傷つき、我が家のみっともなさをとことん隠すようになりました。
「うちは普通じゃないのよ。」
母からそう教えられ続け、その思い込みを強化した幼少期でした。お化けのように膨れ上がった思い込みは、自分の家庭への絶望感を増幅させ、大人になったら早くこの家を出て理想の家庭を作ろうと、強く夢見るようになりました。
父は私を溺愛していたけれども…
今から思うと、家庭内の不調和に幼い私は本当に心を傷めていたと思います。その後、心の平穏を得たくて7歳から12歳まで「神」を求め、少ない小銭の献金を握りしめ、毎週欠かさずキリスト教の教会に通い、救済を真剣に求めていました。ところが、いくら祈っても、行いを改めても、我が家が一向に変わらないことに失望し、教会に行くことを辞めました。
私が私立の女子高生になった頃、世の中はバブル期に入り、父も代表取締役として会社を任されるようになり、急に羽振りが良くなりました。そこで不器用な父は、家族に判るようにあからさまに浮気をし、またもや母を悲しませました。なんて身勝手で、精神性が弱く、不甲斐ない人なんだろう!同時に、家族のために尽くしても、夫に身勝手なことをされる母の弱さ、不甲斐なさ、惨めさを女性として心の中で嫌うようにもなりました。
度重なる父への失望は、そのまま自分の生まれ育った家庭への絶望になりました。我が家に普通の幸せが訪れることを完全に諦めたのです。私は母の弱さを見るのが嫌で、父の目を外に向ける隙間もなくなるくらい、私だけに向かせ続けました。私は父を愛せませんでしたが、父は私を溺愛していた為、それは赤子の手をひねるくらい簡単なことでした。
新しいものを求め続けていても満たされない!
復讐劇の始まりです。
バブルによってお金が父を狂わせたと思い、父にお金の余裕を持たせないように、とにかく私にかけさせました。
海外旅行、ブランド物、父のカード、外車…
道楽娘はこうして作り上げられました。
それは、欠乏だらけの我が家を隠すために、外側を裕福に見せるには好都合なことだったのです。しかし、どんなにブランド物で身を固めても、どれだけ羽振り良く海外旅行に行っても、満足するわけがなく、次から次へと新しいものを求め続けなければなりませんでした。
そんな満たされない思いは、あの家を出て、結婚し、理想の家庭を築くことで満たされると信じて結婚をしました。ところが、その後の結婚生活でも、高く掲げた理想はことごとく反転し、またもや外側を理想的に埋め尽くすことだけに全力を注ぐ苦しい結婚生活になりました。
同時に、頼りなく不甲斐ない夫の姿が、徐々に浮き彫りになってきました。
娘が産まれた途端、この子に私のような思いは絶対にさせない!と、理想のハードルをMAXまで上げてしまった私は、産後鬱になり。
その後四年間、産後鬱に悩まされながら、夫に頼れないまま、理想と完璧を目指すという苦しい子育てを背負うようになりました。
“不安と恐怖”に襲われないようにと…
人生に絶望しまくった私に残された術は、外側を埋め尽くすこと。
それでしか生きていけませんでした。
娘を私立のエスカレーター式の幼稚園に入れたころから、産後鬱は良くなりましたが、今度は周りのセレブな父兄仲間たちとのお付き合いなどで、またもや外側を埋めるハードルが上がり、気がつけば精神安定剤が手放せなくなっていました。
私のどうしようもない欠乏感と不安と恐怖は、夫からも親からも誰からも理解されず、ただのわがままだと思われ、ますます誰にも頼れなくなり、結婚生活にも絶望していきました。
夫婦の関係性に絶望するということは、私の理想の家庭を築くという夢は、実を結ばずに玉砕したのも同じことでした。
外側にどんなエネルギーを向けても、絶対に無理!
外側を虚構で埋め尽くしても埋まらないことを学んだ私は、今度は自分の内側を埋めようとしました。
精神性さえ高ければ、不動の心さえ持てば、いつもいつも空虚感を抱え、他者の目に怯え、不安と恐怖に襲われなくて済むに違いない!そう信じて、目に見えない精神世界へとはまり込むようになりました。
後編に続く