子供の個性は産まれた順番でも変わってくると言われています。上の子は、幼少期から「兄弟の面倒をみる役割」を課せられたり。環境の差と子供の生まれ持った個性も、複雑に絡み合い、影響しあっているのではないでしょうか。今回の女性は、4人兄妹の3番目、下に弟が生まれたことによって、自分のことを「影の薄い、どうでもいい子」と思ってしまい、弟に「親の愛を奪われた!」などと嫉妬したこともあったとか。そんな女性が、カリキュラムを受け自分の人生を紐解けた時に、両親の思いに気づけてとても癒されたそうです。何に気づけたのでしょうか?
Kさん 60代 女性【長崎県】
弟に対する嫉妬があったの?!
・私は自分がどうやって生きてきたのか?
・自分が越えるテーマとは何なのか?
・同じ親から生まれても、経済に差が出てしまうのは何故なのか?
財に縁がないと感じている私でしたので、財というものを受け取りたい!
そんな思いで、ミロス実践コースのカリキュラムを受講する事を決めました。
初めのレクチャーの内容で
《奪われる》《奪う》のシステムを話していただきました。
私にはピンと来ず、何だろう?くらいに思っていましたが、話が進んでいくうちに、
私にもしっかり《ある!》と解りました。
それは、2つ違いの弟に対してでした。
彼が生まれて、親の愛を全て持っていかれたくらいの、
激しい欠乏感を持っていたと認めざるを得ませんでした。
幼い弟に酷い意地悪をして、泣かせたり
時には突き飛ばしたりしていたのを、はっきり覚えています。
ただ、それは、いつも農業で朝から暗くなるまで働き、
家にいない両親に、置いてきぼりにされている寂しさからと思い込んでいましたが、
実はもっと深いところには、
私に向けられていたはずの親の愛を弟に、
《奪われた》事に対する恨みや嫉妬、寂しさや自己否定がしっかり存在していた事をはっきりと知りました。
これは私にはとっては大きなショックでした。
自分自身への《いじめ》があった!
さらに、母と父の関係性から、母の姿を通して、女性であることの無価値感も同時に
インプットしていたんだと解りました。
女に生まれただけで、損だ、悔しい、男に負けていると。
負けたくない、負けを認めたくない、が強烈にあった事。
私が良く感じる、口にする言葉の《悔しい》はここからだったかと。
高校の時、いじめで髪の毛がほとんど抜けてしまい不登校になった。
男子生徒からいじめられた事が原因と思っていました。
しかし、当時、私にとってどこか父性を感じさせる、甘えられるような癒やされる存在の男の子が好きになり、学年が変わるとその子とクラスが離れた事による喪失感から、
新クラスの男子達がつまらない存在としてしか映らず、傷つける事を口にしたと思います。
それからいじめが始まったように思います。
本当に私は自分のことをつまらない存在として、どこまでも否定していたんです。
結局、失恋したんですが、それも認めたくなかった怒りをそこへ向け、その強いエネルギーは、自分自身への《いじめ》という現象で返ってきた。
親の愛にも飢えていたから、髪の毛を抜けさせてまで、こちらを向いて欲しかった
手をかけて欲しかったんですね。
親への復讐もしたかったんです。
そうやって心配させて、愛を奪い返さないといけなかったとようやく体感できました。
私は高校1年までは、とても、綺麗な髪だね、シャンプー何使ってるの?
と良く聞かれるくらい、自慢の髪でした。
その髪を、あのいじめていた男子達が、奪っていったくらいに恨めしく思っていたと書きながら気づきました。
私の中で、【男は奪っていくもの】
という方程式がしっかり生まれていたんです。
だから、与えてくれないものとして、はなから諦め、それなら頼らず自分で頑張るのを選んだのです。
頼るのは負け、なんなら自分が勝ちに行きたいから、ダメなところを見つけないといけなかったし、男性をその位置に居させないといけなかった。
女性性は否定、男性性は憎んで
これでは、全く私の中はバランスがメチャクチャでした。
ないからこそ、父性を感じる男子に魅力を感じて好意を持ったんだなとも思います。
元もと、与えてくれていたの?
夫との関係性、仕事先の上司(男性)との関係性に感じるものも同じでした。
・夫には、今までの人生を返して欲しい
・上司には、私の大事な時間を奪われている
という思いが強かったです。
カリキュラムでシステムとして俯瞰したとき、そうなっていたんだと深く感じられました。
講師から、実は今まで《奪われた》と思って
いたかもしれないけれど、実は 《奪わせた》ということなんですよ、と話されました。
その言葉に一瞬?思考停止
なんと、自分が選んでそうやってきたらしい
力が抜けた。
いつも自分が正しくそして被害者でないといけなかったし、そうやることで勝つと思っていたから、常に頑張らないといけなかったかんだ。負けたくないから。
一体誰に勝たないといけなかったのだろう?
まるで、独り芝居で呆れてしまい、もうこんなしんどいことは要らない。そう思えました。
両親も夫も、今まで沢山与えてくれていた。
命と大切な家族、そして財も(愛)も与えて続けてくれていたんだと泣けてきました。
私が受け取れてなかっただけでした。これがわかり、スッキリ清々しくなんだか
安心している自分がいました。
今は、これらの体験に感謝です。ミロスに感謝です。
言えなかった父への感謝の思い
両親への思いを知って、今は亡き父へ、
伝えられなかった思いを、今伝えようと思います。
背中を押してくれたのは、仲間の皆さんでした。
あるシェア会でのこと
『父親との関係性』についてシェアしたとき、その空間で出てきた思いを、皆さんが受け取ってくれて『今、手紙を書けば良いんじゃない?!』と言っていただたのがきっかけでした。
【過去も現在】それなら書ける! そう思いました。
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お父さんへ
結婚式で、両親に感謝が湧かず、書けなかった、いや、書きたくなかった事などの、今まで、押し込めていた後悔の思いも吐き出して表現しようと思いました。
私とお父さんの関係は、とても遠かったと感じていました。
お父さんと上手く話せなかったんです。
いつの頃からか、私は4人兄弟姉妹の中でも、3番目で、影の薄い、どうでもいい子だと思い込んでいたんです。
それが更に強化されたのは、私が専門学校を卒業し、就職が内定した時。
いわく付きの処と後で解り、断るにもどうして良いか解らずにいた私を、お父さんはるばる迎えに来て、就職先の上司に話をつけようとしてくれていたのを、私が先走り、
『実家の農家を手伝わないといけないので』と嘘っぱちを言い、その事がお父さんのプライドをひどく傷つけた、と知った時でした。
私は何とか断るのに必死でしたが、お父さんの事を慮る気持ちがなかった事を悔やみ、罪悪感と自己否定を更に強くしました。
親には頼らない意固地さは、私への無関心さに対する、復讐心から無意識にやっていたのでしょう、今ではそうだったと素直に言えます。
それからずっと、お父さんは私を更にどうしようもない子と、軽蔑してると思って、お父さんと顔を合わせるのが怖くて、居心地悪く、どう話して良いか解らず、2人きりになると逃げ出したくなる私でした。
お父さん、お母さんは、私には無関心だと思い込んでいたから、せっかく迎えに来てくれたことにも感謝がなく、今頃になって何!という思いしか持てませんでした。
お父さん、ごめんね。心配してくれていたんだね、ありがとう。私は心配してほしくてこんな状況を作ってきたんですね。
思い出すと、幼い時、家で弟と留守番ばかりだった私を、営業の仕事を農業と片手間でしていた頃だったと思うけど、よく私を車に乗せて、親戚の家に連れていってくれたりして、一緒にいてくれました。
車中では、何も話す事がなく、兄弟姉妹も乗っていなかったから、退屈だったけど、今思うとそうやって、かまってくれていたんですね。
就職して仕事をしていた頃も、結婚後も、お父さんに電話するのは、なかなかできませんでした。
たまに電話すると、『よう、○○か!』と、あとどんな事話したか覚えていません。
生前、お父さんは『○○は、あんまり電話をせん子だからね』とよく言っていたよと母や姉から後になり聞きました。
どんなに、私からの電話を待っていてくれてたか、心配していたかを知り、泣けて仕方なかった。もっと素直に、お父さんに思いを話して、誤解していた事を謝りたかったです。
もっと甘えたかったです。
小さい時、泣き止まない私を暗い納戸に閉じ込めた、怖いお父さん、解ってくれないお父さんと思っていました。
主人や上司に感じている思いと同じだったと、今は解ります。
どうにか、泣き止ませたくて、どうして良いか解らなかったんですね、そんな不器用さも、私の男性性。
近づきたいのに離れる、私の不器用さも、お父さんと同じです。
本当の自分の気持ちを表現してこなかった、自分が自分自身に無関心だった事を教えてくれました。
お父さん、私は貴方を選んで生まれてきました。
ありがとう、大好きです。
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※追伸
皆さんの空間で表現でき、そしてもう、これで傷も終わったね、言っていただいた時、
本当に癒やされました。ありがとうございます。
親子(父母)の関係性が全てですね。