Yさん 50代【女性】千葉県
無視をする母にショックを受ける!
カリキュラムを受講する中、自分の人生に起きた出来事をさらに深く掘り下げていくと、罪悪感にいきつきました。
今まで様々な角度から投稿してきましたが、今回結びついた罪悪感が作り出した人生を、改めて投稿させて頂きます。
私の母は過剰な程の過保護過干渉で、何があっても絶対的に私を守ってくれる存在でした。
食べ物の好き嫌いが激しく、その上小食だった私は、食事の時にもっと食べる様にと怒られ、それがとても苦痛でした。
子供ながらに、父が不在の時に限って厳しく言われる様に感じ、ある日父に気持ちをわかって欲しくて、告げ口した事がありました。
そんな事も忘れていた翌日、いつも通り母に話しかけると何故か無反応でした。
聞こえてないのかな?と思い、何度声をかけても返事はなく、母がこちらを振り返る事はありませんでした。
その時初めて、母から無視をされているという事に気づきました。
過剰な程私に関心を向けていた母からの無視は、幼い私にとって想像を絶するほどショックな出来事でした。
後日母から聞いた無視の理由は、私が告げ口した事で父からこっぴどく怒られ、それに腹をたてたという事でした。
私の安易な行動が、大好きな母を怒らせ悲しませてしまった事に大きな罪悪感を感じ、もう二度と母を悲しませない様にしようと思いました。
再び母を悲しませることに…
しかしそんな思いとは裏腹に、私立の女子中学校に入学した私は、今までとは全く違う世界で、出会った事のない刺激的な友人が出来て、好奇心から非行に走っていきました。
服装も派手になり、髪を染め、母に反抗し暴言を吐き、母の泣いている姿を度々目にしました。
短大や社会人になっても、夜な夜な飲み歩き心配をかけ続けました。
そんな親不孝ばかりしてきた私が、高学歴で高収入の男性と出会い結婚が決まった時、生まれて初めて母を喜ばす事が出来たと、最高に誇らしい気持ちになりました。
ところが結婚から一年後のクリスマスの夜に、何の前触れもなく突然離婚したいと言われ、奈落の底に突き落とされた様な、絶望的な気持ちになりました。
離婚だけは絶対に避けたいと、そんな状況になってる事を両親には一切伝えず、プライドも何もかもかなぐり捨て必死で修復しようとしましたが、うまくいかず結婚から二年後に離婚する事になりました。
又母を落胆させてしまい、こんな自分は生きてる価値もないと絶望しました。
何とかもう一度母の喜ぶ顔が見たいと、離婚した翌日から婚活を開始し、もう二度と失敗しないようにと、前夫とは全く違う優しくて誠実な今の夫と再婚しました。
直ぐに娘を授かり、初孫の誕生に母もとても喜びましたが、娘が生後三か月の時に川崎病に罹り、重症化して母子ともに一か月半入院しました。
片道二時間かけ、週に何度もお弁当を持ってお見舞いにきてくれる母に対して、物凄い心配をかけている事に申し訳ない気持ちでいっぱいで、私の罪悪感は更に大きくなっていきました。
罪悪感を持っていたから
無事に退院はしましたが経過観察が必要で、何とか健康に育てようと必死で子育てしている最中に、まさかの夫の借金が見つかり、更に浮気が発覚しました。
私がこんなに頑張っているのにと、夫に対する怒りと憎しみが抑えきれず、顔を合わせれば喧嘩の絶えない毎日。
でももう二度と離婚なんて出来ない!
又母を悲しませる事など出来ない!
人並みの幸せさえ掴めない自分を責め、私さえ我慢すればと自分の感情を抑え込み、何とか結婚生活を維持しようと頑張りました。
しかし、それも限界に達した時にミロスに出会い、そこから夫婦関係が変わっていきました。
子供の頃の母に無視をされた出来事をきっかけに、大きな罪悪感を持ち、そこから二度と母を悲しませないようにしようと思えば思うほど、それとは真逆の体験をしてきたのでした。
夫婦関係が変わった後も、又裏切られるのではないか?という恐怖に怯え続けたのも、母をもう二度と悲しませたくないという思いからで、自分の人生に起きた様々な出来事の何故を理解した今、家族関係が壊れる事は二度と起こっていません。
娘は幼い頃からよく言葉や手紙で
「ママ大好き」「ママはそのままでいいよ」
と伝えてくれていました。
その度に、何故か苦しさを感じていました。
それも、大きな罪悪感を抱えた罪で悪な私は、そんな言葉をかけてもらえる資格はないと、自分を責めていたからだという事が今ならわかります。
先日ライフコースで、自分の人生を振り返った事がありました。
私は、母の選んだ美大の付属中学校に入学しましたが、美術が特別に得意ではなかった私が、何故その学校に入学する事になったのか疑問でした。
母に当時の事を尋ねても「どうしてかしらね~?」と的を得ない返事で、私はそこで散々無能を味わう体験をし、その学校を選んだ母を恨んだ事もありました。
しかし、エスカレーター式に上がった高校で、後に講師になる柳沢かおりさんに出会い、更に私がどん底だった時にミロスを伝えてもらい、現在ではTeam NOAHで一緒に活動をさせてもらっています。
こうして振り返ってみると、私はどうしてもその学校に入学しなければならなかった!という事がわかり、どんな過去も本当に全て完璧でした。
なぜ母が過保護過干渉になったのか?
更にミロス実践コースで、母の側からの人生を見ていきました。
母は家族の身の回りの事は、何でもやってくれ、お願いした事も自分の事は後回しにしても、必ず叶えてくれました。
常に先回りして全てやってくれ、あれこれ口出しもしてきて鬱陶しい程でした。
夜帰宅が遅くなると、夜道が危ないと駅で私の帰りを待っていました。
私は帰宅時間を必ず電話で伝えていましたが、そこから友人との話が盛り上がり、伝えた時間に帰らないこともしばしばありました。
それでも、母は何時間でも駅で待っていました。
何故これほど母が過保護過干渉になったのか?そのきっかけがわかりました。
私が3~4歳の頃、兄や近所の子供達と家から20分ほどの距離にある川に、遊びに行った事がありました。
兄達は私を川に忘れ帰宅してしまい、私がいない事に気づいた母が血相を変えて探しに行ったそうです。
当の私は、一人で川岸にいた所を通りがかりの人に保護され、交番に連れて行ってもらい、近所の人やおまわりさんにお菓子をもらい、ニコニコしながら座っていたそうです。
母の後悔の言葉を聞くことに
その時の母の気持ちを考えると、子供だけで川に遊びに行かせた自分の過失を責め、生きた心地がしなかったと思います。
「直子は誰にでもついって行ってしまいそうだから、知らない人には絶対について行っちゃダメ」と、子供の頃よく言われていました。
又小学生の時、やかんの乗った石油ストーブの周りを、私と兄で追いかけっこをして遊んでいた事がありました。
その時兄の足がストーブにひっかかり、やかんのお湯が落下し、兄は足に大やけど負いその時の跡が今でも残っています。
当時「私がストーブの上にやかんを置かなければ」と、母から後悔の言葉を何度も聞きました。
罪悪感が不幸な人生を生み出していた?!
自分の過失から、わが子を危険な目に合わせた事に罪悪感を感じた母が、異常なまでの過保護過干渉の子育てをし、守ろうとすればするほど子供の非行や離婚を体験し、私と同じテーマで苦しんできた事が理解出来ました。
そんな母からは、過去には色々あったけど、今直子が幸せにしている姿を見れて安心していると言ってもらい、母も今が一番幸せなんだそうです。
まさか、大きな罪悪感がこんなにも不幸な人生を生み出していたとは、ミロスを知る前の私は理解出来ずに苦しんで生きてきましたが、今は過去に起こった全ての出来事に合点がいきます。
自分の全人生を改めて振り返った時、あの苦悩に満ちた過去からは考えられない程、こんなにも楽に生きれている今に感謝が溢れました。
私の全人生が、罪悪感で苦しんでいる人の道標になる様に、今後も使命を全うし活動していきたいと思います。
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