「大きくなったら何になりたい?」と親なら一度は子どもに聞いてみるセリフの一つ。子どもの頃には、夢があって叶うとか叶わないとかに関係なくて、いろんな答えを言って、親を驚かせてみたり、喜ばせたりしたことがあると思います。ですが大人になるにつれて忘れてしまったり、また諦めたりしてしまうものも夢だったり。今回の女性も、子どもの頃の夢がありました。その思いを形にできた喜びは家族にとっても沢山の喜びをもたらしてくれました。素敵なプレゼントをお読みください。
山下 量子 さん 40代 女性【高知県】
子どもの頃の夢
実は小さい頃の私の夢は小説家になる事でした。
私が小学校4年生の時に大好きな藤本ひとみさんという小説家がいて、彼女の作品が私の生きる励みになっていたからです。
彼女に年賀状を出してサイン入りのお返事が来た時は、もう本当に本当に嬉しくて、その時の大切な宝物になりました。
今思えば当時売れっ子の小説家さんですから、本人のサインではなくアシスタントさんのサインだったのでは?と思いますが、その年賀状が私にロマンを与えてくれました。小説と言う世界は、いつも私の心を踊らせてくれました。
自分の脚本が生きがい?!
高校になると実家のおばあちゃんによく手紙を書くようになりました。
それはおばあちゃんを元気付けたいと言う思いでありましたが、おばあちゃんは死ぬまでその手紙を大事に取ってくれていて、いつか本にするんだと大事にしていたと、おばあちゃんが亡くなった後に、母からそう話を聞きました。
そこから本を出すと言うことが私の夢になりましたが、そんなこと到底難しいだろうといつの間にか心の隅に追いやっていました。
それでも大学では三田文学の小説に応募したり、芥川賞を取った女性小説家に嫉妬したり…。
ミロスと出会い、映画というものに出会い、実は私がやりたかった事は小説ではなく脚本だったのかもしれないと思うようになりました。
小学生当時は脚本と言う概念がまだなかったから、小説と思ってたのかもしれないなどと…。
自分の脚本が短編映画になる事はとても嬉しく、生きがいを感じました。
偉人の本の制作をする
コロナ禍で、映画塾はしばらく開催されないことになり、私は映画の世界とは少し離れてしまいました。
そんな中、私が所属する、ある地元の偉人についての研究会で、
その偉人についての本を出そうと言う話が持ち上がりました。
すると、その会に助成金がつくことになり、
最初は小さな冊子を作ると言う話でしたが、助成金が付くなら1冊の本を仕上げようと言うことになり本の製作が出来ました。
子どもにも読みやすい漫画本の方が良いだろう、と…。
そこで私が映画塾などをしていることを知っている方が、『量子ちゃんが脚本を書いてよ』と軽く言い放ったことがきっかけで、私が脚本に携わることになりました。
それが2年前のことです。
まさかセリフ入れまでやるとは?!
その当時は、まんが本の脚本など200時間あっても足りない。
『私なんかにできるわけない!簡単に言うなよ!』と怒りが湧いておりましましたが、
いろいろ考えた後、実は自分がやりたいから自分の名前が上がったことを受け取りました。
本の題材は歴史的な明治時代のマリア・ルス号事件と言う裁判の話で、後に国際裁判にも発展した奴隷解放のお話です。
その裁判長を努めた人間が、私たちの研究会で研究している、大江卓と言う人物で、当時の神奈川県の副知事にあたる仕事を務めていました。
当時25歳で清国人の奴隷を解放したのです。国際裁判では、ロシアの皇帝が日本に勝訴の決定を下しました。
子どもにも裁判の流れがなるべくわかりやすくできるようシーンの工夫をし、黒人奴隷や清国やインドの奴隷など世界の情勢もわかりやすいように、なるべくセリフで当時の状況を伝えるようにしました。
その脚本は、地元にいる漫画家さんの手に渡り、一コマ一コマ、漫画になって行きました。
しかし漫画家さんがちょっと呑気な方であったため、期限に間に合いそうになく、私は生まれて初めて漫画作成ソフトでセリフ入れまで手伝うことになりました。
ミロスをやってると応援者が現れると言うのはよく聞いたことがありますが、服の模様など、トーンを貼ることなどの作業も私がやらなきゃと思っていたら、
漫画のトーンを手伝ってくれる応援者が現れました!
脚本は1年半の年月をかけて作ったものの、セリフ入れまでやるとは思いもしませんでしたが、
はじめての漫画ソフトも何とか使いこなせるようになり、スキャンした漫画にセリフを入れ込みます。
大人の目でも見えるように、子どもでも読みやすいように、大きな文字でセリフを書き、全ての漢字にふりがなを打ちました。
ふりがなと言うものはとても大変で、2万5000文字の脚本でしたが、そこにある漢字に、ふりがなを入れると時間があっという間に過ぎていきます。
280ページ近い漫画となったので、ふりがなの量は、膨大でした。
期限に追われ、最後の方は、右手の小指が腱鞘炎になりました。痛む指にテーピングをしながら、くじけそうになると、パートナーに励ましてもらい、何とか期限に間に合い、
3月の末にようやく漫画本に出来上がることになりました!
創造は楽しい!!
助成金も無事におり、すべての支払いが終わったところです。
本ができたことで驚いた事は、私の両親がとても喜んだことです。
私の知らないうちに、仏壇にその漫画を供えていました(笑)。
そして、祖母がずっと私の本を出したがっていたことをまた話してくれるのです。
普段あまり褒めない父も、よくここまでストーリーを書き上げたな、自慢して良いか?と。
両親の喜びは私の喜びなのだと受け取りました。
遠い昔に願い、諦めていた、本を出すと言うことが叶ったのです。
自分の名前が、表紙に載っているのを見たときは、本当に嬉しかったです。
2年に及ぶ自分の苦労が全て報われた気がしました。
先日は、その漫画本についてローカルテレビに取材していただき、NHKのニュースにもなりました。
今週末は読売新聞の取材を受けます。(主な受け答えは、研究会の会長ですが)
今後、高知県下の各小中学校に、この漫画は配られ、また神奈川県の県立図書館にも協力をいただいたので配られる予定です。
何もないところから形を作る。
創造は本当に楽しい。
またやりたい!
そう感じました。
仕事後に夜遅くまで、毎日このプロジェクトをしていた私に、君は素晴らしいことをしている、といつも励ましてくれていたパートナーにも感謝です。
最後は過酷な作業でしたから、彼の応援なくしてはできなかったんじゃないかとも思います。
そして、いつかこの事件は、映画化するのが私のさらなる夢です。