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親には「褒められたい」とか「認められたい」と思う気持ちは、いくつになってもあると思います。今回の女性は結婚した夫の義父に認めて欲しくて頑張りすぎたり、「鬱」も体験しました。ミロスシステムを学び「自分を知る」事で、今までの人生の紐解きが出来、漸く何故そこまでして様々なことにチャレンジして生きていたのか?「根源」を知ることで親の「大きな愛」を感じとても癒され感謝でいっぱいになりました。ご覧下さい。

加藤 万紀子 さん 60代 女性【愛知県】

父はオアシスのような存在だった

2022年2月15日、享年97歳で父が亡くなりました。
大正、昭和、平成、令和、4つの時代を生きた父です。

「私は父と母でできている!」

MIROSSを学び、子供の頃から感じることを封印してきた私にとって、この言葉にどう父母を見たら良いのか? 父母に感じることと言われても、全くわからないまま何年かきました。

ミロスの恩師である方に20年前にお会いすることができ、

「お父さんはどういう人ですか?」…と直接、聞かれたことがあり、

「当たり障りのない人です。」こんなトンチンカンな答えを言いました。笑

全く感じることが出来ず、父にも、自分にも全く興味がない…こんな風でミロスに出会いました。

それでも離れず、理解できているのかできていないのか、実践もよくわからないままコツコツときたことでわかってきたことは、私は強烈な “認めて欲しい” ということ。

しかし父に対しては、子供の頃から好きだと思ってきたことで、全く見えなくなっていました。

本来怒ると怖い父だったので、3人兄姉の末っ子の私は要領良く、怒らせないように、私にとっては父の“優しい”部分だけ切り取っていたのです。

旅館を営む実家で生まれ育った私にとって、いつも忙しくバタバタとしている母。

父はそんな中で、オアシス的な存在でした。

そして、他人ばかりの旅館の中で、一番小さい私は認識されず、自分の存在を認めてもらえない思いを抱え、父のところへ行くと、何をやっても「いいよ!」と応援してくれる優しい父と思ってきました。

だからこそ、悲しませないように!ガッカリさせないように、喜ばせようと思ってきたのかも知れません。

父に認めて欲しかった

徐々にわかってきたことは、父を怒らせることは怖いからではなく、怒った後の物凄く寂しい顔をする父を見たくなかった!だから怒らせないようにしてきたことも理解できました。

私の男性性は強烈に寂しいのです。

だからもう一方の外側では、明るい活発な女の子を演じる子供時代でした。

決して父は、私に何かを期待したわけではないのに、勝手に期待を裏切らないように、父を喜ばせたい思いで、色々なことにチャレンジしたり、勉強や、部活でも頑張ることが良いことだと思ってきました。

そして、優しいだけではなく、決めたことは必ずやり続けるという意志の強さ、真面目さ、頑なさ、そういった厳しさのある父でした。

父のエピソードで忘れられないのは、「友達に誘われた時、『できないから』と断るな!なんでも上手にならなくてもいいから、一緒に行けるようにしなさい。」と、自分も全く下手なのに、スキーも、スケートにも連れて行ってくれました。

野球の好きな父は、私が小学校でソフトボール部に入った時、とても喜んで、毎日キャッチボールに付き合ってくれました。

そういった父の姿に、次々と何かにチャレンジし、できる自分を目指していくことを“良し”として、また、怠けないように自分に厳しく、その自分から外れないように、枠をつくり、ルールを作り、まさに鍵のかかっていない檻を自ら作り、出ないようにしてきたのです。

システムを深めていったとき、誰彼無く、ずっと外側に「認めて欲しい」をやってきたと思ってきましたが、まさか最も父に対して“認めて欲しい”ということが根底にあったんだということが理解できました。

「ありがとう」の一言が聞きたかっただけ

ところが結婚して、主人の両親と暮らし始めたとき、その全部が覆されました。

「お父さん」というものは、何をやっても「いいよ!」と言ってくれると思い込んできた私にとって、舅(義父)の何をやっても否定する態度にどう対処していいのか全く分からず困惑しました。

父と同じように、義父に喜んでもらいたい、「認めてもらおう」という期待が見事に反転し、やってもやっても全て否定されるとしか感じられず、がっかりする毎日でした。

本当は、ただ「ありがとう」の一言が聞きたかっただけだったのです。 

それでも“認めてほしい”全開の私は、義父が認めてくれないのなら、外側に認めてもらえることばかりを考え、挙句は鬱を体験することになりました。

それから何年も経ち、システムの理解と実践を深め、自分自身が紐解けていったとき、設計図そのものに浮かび上がる父と母が、パートナーの父と母と一致したのです。

授業で聞いた「父母の良いところ悪いところを書いたら全部自分のことであり、パートナーのことであり、パートナーの父母のこと、全部行き渡る!」まさしくその通りと理解できました。

ところが、私の理解を何年も妨げるものがありました。それは “男性性” “女性性” という言葉に囚われていたからです。なんと外側の男と女がひっくり返っていた! それがどうしても理解を遅らせていたのです。

最も嫌った母に感じて来た、否定、依頼心の強さ、自分の無い優柔不断さ、そして強烈な「認めて欲しい」姿こそ、まさに私そのもの! …そしてそれが、最も目の上のたんこぶである舅に映し出されていたのです。

「なんだ、そうなっていたのか!」これを知ったときの脱力は半端なく、愕然としました。

そして、父同様、なんでも黙って見ていてくれたのが姑(義母)だったのです。

そして自分と舅を、同時存在、二重構造で見た時、全く一致し、私の人生の四半世紀、最も私を苦しめた舅こそ、まさしく自分そのもの、自分を知るためのキーマンだったのです。

義姉の思いは自分と同じだった

父の話に戻しますが、体の小さな父でしたが、お酒が好きで、でも、ちゃんと自分の体の管理をし、毎日散歩し、90歳まで無事故無違反で車の運転をしていました。

戦争にも赴き、中国まで行きましたが無傷で還り、母と二人三脚で63年旅館経営をしました。

やはり5年前に旅館を辞めてから、徐々に弱ってはいきましたが、それでも半年前までは、杖をつきながらですが散歩をし、公園の鉄棒に捕まり足をあげる練習をしていました。

ところが昨年、義姉(兄の嫁)の病気がわかり、父はそのショックから転倒し、大腿骨骨折し車椅子になり、歩くことが好きだった父にとって、かなり気力を失うことになりました。

たった4ヶ月で義姉は亡くなりました。

父にとって精神的なショックがあまりにも大きく、長男の嫁として、どれほど頼りにしていたのかということもわかりました。

ところが義姉の手記を読ませてもらったとき、父(舅)の束縛を強く感じていた義姉は、父のことが苦手だったことが書かれてありました。

まさに私と舅(義父)の関係と同じだったのです。

そして義姉の亡くなったあと、ちょうど半年で旅立っていった父!

旅館を支え、まさに旅館と共に生きてきた父と義姉!

10年ほど前、父と母が自分たちの為に準備しておいたお墓。まだ誰も入っていなかったのですが、まさか一番先に長男の嫁が入るとは、だれも予想だにしなかったことでした。

そして、その半年後に父が入る。

縁の深さ、まるで義姉が先に行って「あとは任せてね!」と、父を迎える準備をしてくれているようで、嫁と舅でありながら、父娘と言う愛が本当にそこにあったのだと感じます。

父の看取り

義姉の死のあと、父と母一緒に介護施設に入れていただくことになりました。

私と主人が週一回会いにいくと、手を合わせて「感謝!」と言ってくれた父。

しかし、兄が行くと「帰りたい!」帰る支度をすると言った父。

2022年になり、今年のお正月は、子供、孫家族と一緒に食事ができましたが、日に日に弱っていくのは感じていました。

そして、2月13日救急搬送で病院での点滴は受けられたものの、コロナ禍で入院の受け入れ体制がなく、介護施設で訪問介護についていただきました。

そして2日後、旅立ちました。

コロナ禍で、家族も介護施設に入れず、父のお気に入りのベッピンさんの介護士さんが、最期まで名前を呼びながら看取ってくださいました。最期まで「ありがとう」と言って息を引き取ったと知らせてくださいました。

そんな状態で、ちゃんとしたお通夜もお葬式もできず、家族だけでの見送りとなりましたが、病院だったら不可能でしたが、施設で88歳の母が最期まで父に寄り添い、父の枕元で枕経をあげ、最期まで一緒にいられたのも、本当に幸せな父だったと思います。

この両親のもとに生まれた幸せ

「私は父と母でできている!」

MIROSSという叡智を聴けるこの遺伝子を選んできた。そのためにこの両親を選び、その精子と卵子を選んできた!

最後の最後まで父に寄り添い、最後は自分の手が痛くなっても、毎日、痩せた父のお尻の下に手を入れてあげていた母!

内なる男と女!

最後まで、一つを見せてもらいました。

「帰りたい!」と言った父!」
「そうか!還りたかったんだ!」
やっと還れたね!

父を亡くして、改めてそこに残ったものは、やっぱり”大好き”な父でした。

そして、父こそ「あるがままを認めてくれていた!」と、今、思えることが本当に嬉しいのです。

父の愛はとてつもなく大きい!

鬱は自分を許せない人、自分を許すことに挑戦している人!と恩師から教えていただき、

あれだけ自分を許せなかった私が、「あるがままを認められるようになったんだ!」と自分に返せたとき、私の男性性の愛はとてつもない大きいと感じられました。

そして、親戚、知り合いの方々に父の訃報を知らせると、誰もが「とても世話になった!優しい叔父さんだった」と、従兄弟たちも言ってくださり、そして、施設の若い介護士さん達から『かおるん(父の名は“薫”)』と呼ばれていた“愛されキャラ”だったと聞くことができました。笑

私の男性性は本当に素敵だと思えました。

なんだ!生まれた時から、あるがままを認められていたのか!

そして、全部を包みこんでくれた父の愛はとてつもなく大きい!

パートナーも!鬱の時も、今回も、いつも全てを受け入れてくれています。

最もキーマンだった舅も、表現方法が下手だっただけで、本当はそうだったのかもしれないと今なら思えます。

父の愛はとてつもなく大きい!

そしてこれからも大きな大きな父の愛に包まれて抱かれて、愛そのものの両親からいただいたこの体と命、全てが“愛と感謝しかない世界”で自分の使命を全うしていきます。

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