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  4. 全ての苦しみが“自由”と“安心”に変わる!!

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世界各国の悲惨なニュースが流れる度に、「人間は、いつになったら平和に暮らせるのだろう…」とため息が出てしまう。生まれた国が違うとはいえ、教育すら安全に受ける事が出来ないばかりか善悪の価値観も全く違う。武力と権力をかざして周りの罪も無い人々を巻き込んでいる彼らは何を求めて戦っているのだろう?人間にとって本当の「自由」や「安心」はどこにあるのだろう?豊かな国、日本でも同じ答えを求めて様々な事件が起きている。 岸本講師は裕福な家庭に生まれ育ち、子供の頃から「何の心配もない優等生」と言われて育った。しかし結婚と同時にその幸せの歯車が狂い始め、波乱に満ちた人生が幕を開ける事となるのだ。長女も長男も、そして家庭も…なぜ人間はこうも自由に生きられないのだろう?なぜ愛する人とのあいだにさえ亀裂は生じてしまうのか。どうにもならない彼女の前にMIROSSは、永遠に変わらない「真実の答え」を示してくれたのだ。岸本講師が壮絶な体験を通して出合った「自由」と「安心」のある場所とは…。

結婚、波乱の幕開け

兄と妹がいる3人兄弟、父は電気関係の会社を経営。裕福な家庭に生まれ物質的にも何不自由なく育てられた岸本講師は、やりたい事は何でも自由にやらせてもらったと言います。

学生時代は、ソフトボールに明け暮れ、生徒会の副会長にもなり、大学ではマンドリン三昧の4年間でした。卒業と同時に栄養士の資格も持ち、趣味は料理。両親からも、あなたは何の心配も無い子と言われていましたね。

ですから早く結婚して、今までと変わらぬ幸せな家庭を持つことが、次の人生だと思っていた私は、恋愛して親に反対されるくらいならと、大学の4回生からお見合いを始めるようになりました。とにかく理想の人に出会うまでと慎重にお見合いを重ね12回目に出会った相手と23歳で結婚しました。

ところが、そこからが波乱の人生の始まり。嫁いだ瞬間から、私に対する相手の家族の態度は一変し、まるで軟禁状態のような生活が始まったのです。新婚生活が始まってすぐ目にしたのは、夫の異常なファザコンぶり。家族が同居で小姑もいて、何とか仲良くなろうという努力をするより早く、回りは全て敵のような環境になっていました。

理想的な結婚だとばかり思っていたので正直、戸惑いました。ひとときも一人になれる時間がないのはもちろん、眠るのも起きるのも、食べるのも休む事も…自分の自由になる事が何一つない生活。

しかも舅の経営する会社の事務所は自宅の一階で、夫の勤務先は隣。本来なら、いつも愛する人の側にいられる好条件にもかかわらず、精神的にも肉体的にもがんじがらめに束縛され一ヶ月で先が見えてしまったのです。

私は何のために生まれて来たの?私は奴隷じゃない! 死をも脳裏をよぎる状態になり、努力しても未来は見えないという母の決断で二ヵ月目に両親に救い出される形で、あっけなく一度目の結婚は幕を閉じました。

子供に映し出される不安の数々

たった二ヶ月でしたが、岸本講師にとってこの体験は、その後の人生に沢山の影響を与えたと言います。どんな事も体験した人にしか解らない、特に結婚は。つくづく結婚とは条件ではなく人としての価値観や育った環境が大きく影響すると感じた彼女は、一年後、傷ついた過去を振り切るかのように13回目のお見合いに挑みます。

そこで今の主人と運命の出会いを果たし再婚。今度は条件ではなく、人間性で選んだ結婚でした。

新婚生活は、とても楽しいものでした。早く子どもが欲しいと思った訳ではないのですが、前回の結婚でのストレスで不妊治療をする程、病んでいましたから、長女を授かった時は本当に嬉しかったのを覚えています。子育てはとても楽しく、夢のようでした。今振り返っても人生で最良の至福の時だったと思います。

そして、私が30歳、長女が3歳のとき待望の第2子、長男が誕生します。しかし、彼はダウン症という障害と重度の心臓疾患を抱えてこの世に生まれてきたのです。

私がその事実を医者に告げられたのは、長男が生まれて2ヶ月目の時でした。染色体異常というどうする事もできない〝障害〟…それを受け入れるのにさほど時間はかかりませんでした。しかし、私の腕の中にいるこの小さな命は、もうひとつ…心臓を手術しなければ1年も持たないだろうという〝運命〟まで背負っていたのです。

早く手術をしなければ手術の意味がなくなると迫られる決断。手術をして障害を持った子どもが、親以上に生き続ける事への不安と、手術をしない=その子の命を見捨てるという二つの選択を目の前に、私と夫は悩み続けました。

結局、夫は決断を先延ばしにし、最終決断は私がせざるを得なくなったのでした。お腹を痛めた母親である私の気持ちを尊重してくれたのだとは思いますが、子供の命の決断を私独りに押しつけられた気がして、とても孤独な日々でした。

入退院を繰り返し2ヶ月と家に居ない中、3人中1人は亡くなるという手術をするべきか…それとも持って生まれて来た命を天に委ねるべきか…何度も何度も考え眠れぬ日々を過ごし、とうとう私は〝持って生まれて来た命を精一杯輝かせて生きてくれれば良い〟と自分に言い聞かせて手術をしない選択をしました。

そして、それは同時に「そういう子どもの最後は悲惨である」という事も受け入れなければいけない決断でもあったのです。その時が来たら、延命治療を拒否する事なんてできるだろうか? 〝障害〟と共に子どもの死を見届ける〝覚悟〟を受け入れた瞬間でした。

長男は、その後も免疫不全のため一年の間に5回も風邪をひいては肺炎になり入院し、時には危篤状態にもなりました。〝この子はやがて死ぬ〟という事を受け入れたつもりでも実際に危篤状態に直面すると、いろんな恐怖が襲ってきます。

でも、息子は私達を〝親〟に育ててくれる神様だったのだと思います。何度かの危機的な発作と苦しみを経験し、私達は運命にも負けないほどの心の強さを手にしていました。もう子どもの死から逃げられない! 毎日を懸命に生き、ふと気がつくと長男は10歳になっていました。10年生きられた…そんなある日、またいつものように発作が起こりました。

目の前で虫の息になり静かに命の灯火が小さくなっていく息子。その姿を見ながら特にあわてもせず「こんな風に亡くなるなら平和だなぁ」と何の恐怖も感情もなく、ただただ見ているだけの私…。ミロスの原理を知った今だからこそ、それが〝子どもの死を本当に受け入れて、生と死を超えた瞬間〟だったと理解ができます。

今まで、こうじゃなきゃ幸せではない、これができなきゃと沢山の枠を持って生きていたけど、この子は生まれてくれただけでよかったんだ。そんな感覚になって以来、息子は発作を起こしていないのです。受け入れるとは本当に凄い力なんだと思います。

ビジネスと背中合わせ、家庭が……

一方、その頃ご主人は、祖父の時代から続いた自転車の貿易業が円高により立ち行かなくなり解散。のれん分けの状態で独立したものの、世界的な不況の中ではなかなか思うようには行かず、経済的にも困窮。やがて夫婦の間にも亀裂が生じて行ったのです。

当時、私は頭で考えてばかりで頑張ろうとしない夫の姿を見る毎日に苛立っていました。 「これから何年も子供たちにはお金がかかるのに、いったいこの人は何を考えているんだろう?」両家の親に支えられ生活は成り立っていたものの、子どもの手術の事から出来始めていた夫婦の亀裂は、この頃を境にどんどん広がって行きました。

私の母は専業主婦から市民活動家になり、市会議員へと大きく躍進した典型的な〝できる女〟、曲がった事が嫌いで皆の為には全力で尽くす。私はそんな母に憧れ、母を見習い、私も料理を教えたり、塾を開いたり、様々な講師を経験してきました。娘の小学校で教師が体罰をしている事が分かった時、力で弱い者を押さえつける事や理不尽を嫌っていた私が、とことん学校側とやり合ったのも母親譲りかもしれません。

ですから、仕事の事でもつい夫に色々と意見を言うのですが、いつも「おまえは勤め仕事をした事がないくせに何が分る」と言われ、とても悔しい思いをしていました。

その頃、娘はちょうど中学受験を終えたところで、ふと〝タイミングが来た!〟と感じた私は、仕事を始めるからと宣言し、土日に出かけるようになりました。出会ったビジネスでは、世の中に物が普及する仕組みや、人に正しく情報を伝える方法等々、全く経験した事のない世界にワクワクし、すぐに人前でプレゼンテーションする程になりました。

しかし、私が外に出かけるようになり仕事が上手く行けば行くほど、夫は不機嫌になります。

私の居ない時には娘とぶつかり、娘に暴力を振るっている事もありました。娘に手をかけたら離婚すると宣言した事で収まったのですが、娘の苦しみは深くなっていったようでした。

娘は、小学校で体罰、中学では人間関係に苦しみ自分の居場所を探し求めていたのでしょう。出口の見えない人間関係の苦しみに耐え切れず、せっかく中学受験して入った学校を高校2年生でやめると言いだしました。

勉強が嫌いだった訳でもなく成績が悪かった訳でもなかった娘。最終的には担任の説得で、なんとか単位制の高校に移ったのですが、この学校が最終学歴になったら学歴コンプレックスになると自覚し、2年後の9月には高校の単位を修得し大学受験を決意してくれました。

しかし、当然その年に希望の大学には進める程の準備は出来ていません。うつ病、そしてたびたび起こるパニック症状。娘は一年掛かりでそんな病気とも戦いながら受験に取り組み、希望の大学に合格しました。

永遠に変わらない「真実の答え」との出合い

人生とは、なぜこうもうまくいかないのでしょう? 人間が思い通りに生きる方法はないのだろうか? そう感じていたとき岸本講師はミロスに出合います。

その頃、私の仕事は絶好調だったのですが、夫はどん底で、娘はうつ病。家族は口を開けば喧嘩の毎日、会話もまともに出来ない状況でした。仕事の話を一緒にしようと思っても主人は「今度は僕が主婦になる」と言い出す始末。「なぜ話ができないの? 私は普通に一緒に話して共に何かを築いて行きたいだけなのに…」子供たちは病み夫婦は離婚寸前、もはやバラバラの家族を繋ぎ止めていたのは、皮肉にも無表情でダウン症、重度の心臓疾患を持ち、いつもポツンと部屋の隅で遊んでいる息子の存在だけでした。

そんな時ミロスのシステムに触れ、永遠に変わらない世界に私はのめり込んで行きました。実はミロスに出合ったすぐ後に、私はあっという間に仕事を解雇され、仕事に関する何もかもなくし丸裸状態で放りだされていたのです。

聞こえて来たのは「目の前は全て自分」という言葉。この世はミラーワールドです。父や夫を嫌い、有得ないと思っていた夫の行動が自分そのものであった事を理解すると、夫との空間が全く変わっていく…。

パニックを起こして泣きじゃくる娘を、私だと見た時から娘のうつ病は消えた…。日々感じるまま実践していくうちに、20年間、いつも頭を離れる事のなかった〝息子の死〟という恐怖から、私は一瞬で解放され、同時に本来の私として自立したような感覚に生まれ変わっていたのです。そして、息子も表情豊かになり自立し、人と関わりを持つようになりました。

今、私の人生を振り返りシステムに当てはめてみると、母に〝心配のない子〟と言われた時から自分で理想の枠を作り、目の前に現れる理想では無いものと戦ってきたと分かります。束縛を嫌い、自由を求めれば求める程うまくいかなかった。そのたびに、自分を傷つけている事とも知らず、色々な気持ちを切り捨てる事でしか生きて来られなかった。それが私のストーリー。

そして、何もかも一〇〇%できる事にこだわって生きてきたような私が、最も解放されたのは、「何一つ出来ない息子の可愛さも、私以上に出来が良い娘の優しさも、苦しむ姿も、夫の大きさも、弱さも、何もかも私にあった。実は全部、私の本当の姿を映し出している鏡なんだ」と気づいた時でした。

講師からのメッセージ

今、私は自信と確信を持って「ミロスしかない」と伝えています。 〝ありのままの自分で愛される〟事を知った時、人間は体験したことの無い涙と感動を味わいます。私は、特別な修行をした訳ではなく、システムを理解しただけです。

夫は、私の理解に比例して、どんどん変わって行くのが分かりました。20年前の息子の手術の事を謝ってくれたり、今まで聞いた事も無かった心の傷の話をしてくれたり、それはまるで出合った頃の私達のよう。

気がつくと、娘は辛かった父親との過去も完全に終わり何事も無かったかのように元に戻っています。家族が完全に変容し、今では夫も結婚した娘達も、夫婦でミロスを学びはじめました。

ミロスという、どんな時も変わらないシステム。全ての苦しみが「自由」と「安心」に変わるその方法、答えがここにあります。求めてみて初めて分った「本当の自由」それは、自分の全てが受け入れられ、相手の全てを受け取れるパートナーシップの中にありました。

傷ついても、傷ついても諦めきれなくて、安心できる人を求め続け、信じる事が信じられなくて、もがいてきたでしょう。でも、もうそんな戦いはしなくていい。システムを知れば、全てが完璧なストーリーだったと解ります。システムを知れば人生は必ず変えられます。

ミロスアカデミーでは世界で初めてその方法をお伝えしているのです。

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