人生にマイナスなどない。そう思っていましたが、実は強烈にプラス思考にしがみつかなければならないほどマイナスを隠していました。母娘三代が同時に、そのマイナスを観たことで、代々引き継がれていた不自由な運命をリセット!各々の体験をご紹介します。
冨田 セツ子さん 60代(母)【長崎県】&深田 智恵子さん 40代(娘)【愛知県】&Fさん 20代(孫娘)【愛知県】
□ 深田 智恵子さん(娘)の体験
感情を切って生きてきた?
Lifeコースを受講し、可もなく不可もない人生の人は、マイナスにもプラスにも、極に振れることを怖がり、感情を切っていると聞きましたが、私には、感情を切らなければならないほど傷ついた経験がないため、どこか腑に落ちませんでした。
でも、Lifeコースの3週目。自分が強烈なプラス思考で生きなければならないほど、マイナスを隠し通してきたことを知ったのです。
そのきっかけになった体験は家族旅行でした。
夫と子供たちの家族5人と、長崎にいる私の両親と東京旅行をすることになり、1泊目は全員で格安ホテルに泊まり、翌日は両親のみ宿泊するため、ホテルのランクも上げて、高層階のラウンジ付きプランでした。
両親は大喜びで、孫と触れ合えたことや、私の夫の気遣いへの感謝、また、新婚旅行を思い出すような素晴らしい一夜を過ごせたことなど、喜びとお礼のメッセージが旅行後に届きましたが、私は、両親に喜んでもらえたにも関わらず、気分は晴れませんでした。
その事をLifeコースで話すなか、苦しい涙が止まらなくなり、その涙の訳をカウンセリングで講師にナビゲートしてもらいながら、しっかりと観ていきました。
暗くて冴えない子ども時代
私は、今の自分は好きだし、幸せだと思っていました。でも、子どもの頃の自分は嫌いでした。なぜなら、暗くて冴えない子どもだったからです。
両親は、私のやりたいことを何でもやらせてくれ、理想を押し付けられたこともなく、私を大切に育ててくれました。また、父の仕事で転校することも多く、なかなか学校に馴染めなかった時も、母は出勤前に私を学校まで送り届け、先生に相談してくれました。
私は、母に心配をかけたくない、周りからも可哀想な子だと思われたくなくて、精一杯平気なふりをするのですが、中学、高校、短大と、どんどん暗くて冴えない自分を感じるようになっていきました。
プラス思考の母と同じ
惨めな自分を感じたくない、それに姉というプライドもあり、妹にはカッコ悪いところを見られたくない。私は感情を遮断し、自分の無価値観を隠して、プラス思考に傾いていったのだと思います。
私、母と同じことをやってる!
家族にプラスしか見ていない。パーフェクトにみえる子どもたちも、私と同じように、親に話せない自分のマイナスを隠しているのかもしれない。私も、子どものために良かれと思い、学校の先生方にも接してきました。母と全く同じです!
そして、私のこのタイミングに合わせ、母と娘が、柳沢かおり講師の電話カウンセリングを受け、母娘三代に同じ運命が遺伝していたことが明確になったのです。
□ 冨田 セツ子さん(母)の体験
隠していた感情
「私は幸せだし、愛されている」そう思っていましたが、カウンセリングを受け、自分の奥深くに根付いていた恐怖が浮上してきました。
小学校に入学して間もない頃、「家を出ていく」と手紙に書いた私。どうして家を出ようとしたのか?その理由を探っていく中で、強烈なプラス思考で隠した人生のマイナスが見えてきました。
私の父は、一代でボルト工場を築き上げた人で、頑固で気難しいが、寂しがり屋で愛情深い人でした。
母は、我慢強く、とても優しい人でした。
今まで、とてつもなく大きな愛に包まれた大好きな家族だと思っていましたが、本当は、親の希望に背くことが出来ず、嫌々、付属小学校へ通っていたのです。
そうか!私は親の理想に応えようとしていたのか!
子ども時代の辛い記憶
娘の体験を聞いて、私も娘と同じだと感じ、そこから封印していた辛い過去がどんどんよみがえってきました。
子どもの頃、父が怒らない日はありませんでした。少しでも気に入らないと怒りを爆発させ、家がグチャグチャになりました。父の暴言や暴力は、絶対に世間には知られたくありませんでした。
怒りのはけ口は、いつも要領の悪い母で、殴られ、お膳をひっくり返される…。私は、自分のせいで母が怒られないように、父の顔色を気にしながら、父に従い、父に言われなくても気がつくように勝手に体が動くようになっていました。
ただただ平和に暮らしたい。よその家庭がうらやましい!家に居たくない!
商売人の家は嫌だ、普通の家がいいと思っていました。
そして、24歳でお見合い結婚をし、やっと自由になれたと思ったのも束の間、実家の会社を守るために、仕事で実家に通うことになったのです。
親の理想の子どもになりたい
しかし、父も歳をとるにつれて荒い気性も落ち着き、父の望むことはすぐに私がやってあげるため、ご機嫌でいましたが、入院を機に亡くなるまでの間、一番上の姉が母の座をも奪う勢いですべてを仕切り、父の愛を独り占めにしてしまい、私も姉には敵いませんでした。
父の死後は、私が母を自由にするのだと、自分の家庭は放ったらかしにして、母の元に通い続けました。「せっちゃんは、かゆいところに手が届くね」という母の言葉が私にとっては最高でした。
今思えば、母を喜ばせることで、兄や姉たちに自分の存在価値をアピールしたかったことがわかります。自分の評価が低く、極限まで無理して頑張るほど、親にとっての一番になりたかったのです。
私も、娘も、孫娘も同じく、親の理想の子どもになることが自分の理想だったのです。
□ Fさん(孫娘)の体験
母の希望通りに生きていた
挫折したことのない幸せな人生。思い通りにならないことがあっても悩むほどではない。
ノープロブレム!と生きてきたが、何か引っかかる…。そこで受けたカウンセリングで、隠したマイナスが見えてきました。
「最近、自分がドンくさいということを知った」という話題からカウンセリングがスタートしました。今まで私は何でも周りの人より優れていると感じていましたが、幼い頃の自分につながっていくと、優秀さを求めた自分が見えてきたのです。
母が「ママは子どもの頃、スポーツが本当にできなくて。球技の時は、ボールがこっちにこないようにと思っていたんだよ」と言うので、私はスポーツの得意な子になりました。
また、「ママはそんなに勉強しなかったのに、すごいね」と言われたので、私は勉強のできるしっかり者になりました。
そして、「Fちゃんが弾くピアノが好き」と母に言われたので、私は大好きなフィギュアスケートよりもピアノを優先し、学年で一番上手い子として有名になりました。
高校生の時には「男の子は何してくるかわからないから、危ないよ」と言われ、それ以降、彼氏もいません。誰かと付き合う事になり、母にあれこれ心配されたくなかったし、別に彼氏がいなくても幸せでした。
と、そんな事を講師に話しながら、私は母の希望通りに生きていることを感じました。
自分の意思でモデルもやり、母も応援してくれている。今まで私はやりたいようにやってきたと思っていたのですが…。
何がしたいのかわからない
ここで講師から「Fちゃんが今したいことは何?」と聞かれましたが、何がしたいのかさっぱりわかりませんでした。
「あれ?何?今までの人生は、私が思い描いたものじゃなかったの?すべて母が思い描いた人生なの?」
でも私は、母に何かを強要されたこともないし、苦に感じることはなかったし…と考えていると、ついに気づいてしまったのです。
『私は、母の描く理想でありたいだけだった。だから、本当にしたい事が何なのかわからないんだ!』
理想の娘じゃなくてもいい
そして、講師から
「スケート、また始めてみたら?」
「パートナーを見つけるのも、いいんじゃない?」
と言われると、一瞬、今までの癖で『お母さんがどう思うだろうか?』と考えてしまいました。
でも、もういいや、母の理想の娘じゃなくても、思いつくままにやりたい事を探してみよう!と思い、なにか凄くワクワク楽しい気持ちでいっぱいになったのです。
こうして、Lifeコースとカウンセリングにより、隠し続けてきたマイナスと出会い、とうとう運命の遺伝から彼女たちは解放されたました!
親の理想の姿を目標とし、自分の気持ちは置き去りにして、何をしたいのかを完全に見失うパターンを、母娘三代で見破り、全員が解放されたのです。